楽器の演奏に向いている、向いていないって、やっぱりあるんでしょうか。あるとしたら、その基準は何でしょうか。
演奏家にとって、必要な素質とは一体何でしょうか。
先日、「のだめカンタービレ」というマンガの実写ドラマ版がテレビでやってたので観ました。
このマンガには個人的に前から興味があって全巻セットで購入しようと何度も思いましたが、大量のコミック本が本棚を占拠するのが恐くて、今のところテレビドラマしか観ていません。
さてそのドラマの中で、主人公は「何のために楽器を演奏するのか」という疑問にぶつかり、思い悩みます。
そう、これこそが、実は核心です。
楽器を始めた当初などはその楽器の魅力である程度継続させることができるのですが、その先にはこの問題が鎮座しています。
(例えばあなたは、「何のために演奏するのか」を、その場しのぎでなく、自分の身の上に照らし合わせた上できちんと考えたことがありますか?)
そして主人公は苦悩の末、自分の演奏を聴いてくれる人がいるから、演奏を続ける、という結論に至ります。(だったと思います)
そう、まさに、そのとおりなのです。
まず、人に聴かせようと思うこと。ここ、試験があるなら絶対出ます。
重要なのでもう一度書きます。人に聴かせようと思うこと。その意識が、とても重要です。
うまいとか下手とか、関係ないのです。人に聴かせたいと思う人は、自分で下手だと自覚している場合でも、人前で演奏することに意欲的です。
漠然と、この人は楽器演奏に向いてるか向いていないか、ということを考えるとき、直感的に「いい感じ」と思える人とは、つまりそういうこと、人に聴かせたいという意思を既に持っている人であると思います。
その意思を持っていない人は、上達曲線の角度もゆるやかで、今後マイペースにのんびりと続けていくことになります。
指導する側には、その意識を上手にコントロールしていくことが求められます。
尺八は魅力ある素晴らしい楽器だ、吹いてて面白い、というだけでは、いずれ限界がきます。
尺八が続かない、或いはうまくいかないのは、自分以外の誰かの存在が欠如しているから、の可能性が高いと思います。
自分以外の誰かとは、何も客席の聴衆である必要はなく、例えば舞台上の共演者や、稽古場で次を待っている人、或いは部屋の前を歩く通りすがりの人でもいいのかもしれません。(自意識過剰なくらいがよいのです)
人に聴かせる機会があるならその時は頑張ろうくらいに考えている人と、
最初から聴かせる前提で日夜虎視眈々としている人では、ようするに全く次元が違います。
自分のために起こすアクションは、強いようで非常にもろいものです。
自分以外のために起こすアクションは、ちょっとのことではびくともしません。
あなたは演奏家として、必要な素質を持っていますか?
※「のだめカンタービレ」の中には、含蓄の多いセリフが数多くちりばめられています。世界的な指揮者が言っていた「楽譜ともっと向き合いなさい」というセリフで、筆者はちょっと開眼した気がしました。
でも「舞台上の共演者」でもよいとの記述に それならあるわと 目からウロコ。なんだか嬉しくなりました。ありがとうございます。
あと、「楽器を始めた当初などはその楽器の魅力である程度継続させることができるのですが、その先にはこの問題が鎮座しています。」
これは実に深い問題だと思います。琴でも確かにお稽古に通えば自分のレベルは上げられます。が10年15年と続けるとこの問題に直面します。で、答えが出ないと「弾きたい曲もできるようになったし、もういいわ」とぽろぽろとやめていく方多いです。・・・琴三絃でも「自分以外の誰かの存在が欠如している」とひとりでやっていることにいずれ飽き、弾かなくなります。30代の自分がそうでした。ともに音楽を楽しめる人や仲間・グループを持てた人は50才以上になっても続いています。自分のレベルを上げつつ合奏を楽しめる相手を見つける努力をしていければベストなんだろうなと思います。なかなか難しいことですけど。
いい音が出るようになるのでしょうか。ご指導をよろしくお願い致します。